←日本領土尖閣諸島

←大正九年に中華民国が日本政府に出した公文による、 明らかに尖閣諸島は日本沖縄県の領土だ

↑なお、中華民国五十四年と五十九年(昭和四十年と四十四年)に台湾で出版した地図による、はっきり尖閣諸島は日本に属する。

日本の最後の領土確定は、敗戦処理の1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約で、竹島も含め日本固有の領土と国際的に規定された。ここが領土問題の原点で、これ以上さかのぼるのは、現代の住居表示を江戸時代の地図で探すようなもので意味がない。

さらに、1971年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)により、尖閣諸島は日本に施政権が返還された地域の中に含まれていて、日本領土である事に何の問題も無く、国際的に承認され今に至っている。



また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙人民日報(上の記事)は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は我国(中国)の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隈諸島など7つの島嶼からなっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると中国共産党機関紙が紹介している。参照記事



中国の方なら上の拡大した新聞記事は読めるだろうし、新聞の現物は保存もされているはずだ。どこをどうねじ曲げたら「中国の主権」が存在するのか、国連常任理事国でありながら国際法は守らないと言うなら話は別だが、自分の書いたことも忘れるのだろうか?

上記は支那によって1960年出版された世界地図集、尖閣諸島は明らかな琉球の島だ

 

中国・明代の『石泉山房文集』。赤線を引いた一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている=「四庫全書存目叢書」(荘厳文化公司)から

尖閣諸島は日本古来の領土、もう一つ動かぬ証拠が発見された!

明治二十二年清国が印刷した日本地図、はっきり書いてあった!尖閣諸島およびその付属海域は日本領土だった!当時に日清戦争はまだおこっていませんでした!支那人!弁解してくださいませんか!?

 

 尖閣諸島(沖縄県石垣市)のひとつ、大正島について、中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に「琉球」と明記されていたことが、石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で分かった。中国は尖閣諸島を「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」と主張しているが、根拠が大きく崩れることになる。

 尖閣の帰属に関しては1895(明治28)年に日本が正式に領有した後の1920(大正9)年、魚釣島に漂着した中国漁民を助けてもらったとして中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」に「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていたことが明らかになっている。明代にも琉球側と記していた中国史料の存在が明らかになるのは初めて。

 上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。

 石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。

 

ですから、政府は我が国の神聖領土尖閣諸島を守り義務と責任を取らなければならなく、必要の場合には武力で支那強盗をしっかり懲罰を与え、殲滅しなければなりません!!!

 

 

支那殲滅大連盟(C)2011